2011年11月25日
さて、西望幼稚園誕生の経緯です。お寺は寄宿舎の建物を譲り受けることになりました。カネボウ内にある託児所はパンク状態、託児所だけでは収容できなくなり同地区の公民館を借り小県郡最初の保育園にと、工場側と話が煮詰まってきました。ところが、地区の公民館を「よそ者」には貸すことできないとクレームがついたのです。当時、外部からの偏見は特別なものがありました!!考え方の違いで破談となったのです。(その当時の内容のやりとりの手紙が園に残されています)残された道は、寄宿舎をお寺兼保育園として活用するしか方法がなかったのです。急遽、本堂の畳を撤去し、ホール・遊戯室に!!居間・客室は保育室に!!炊事場が給食室に!!と開園に向けて準備がされたのでした。
いよいよ・・「1952年(昭和27年) 4月10日開園式並びに入園式 」を・・!!そして・・その朝、私も産声をあげたのです。宿縁ですね!!
丸子中央保育園がスタート、その一年後中丸子保育園ができたのです。50年の年月で一世風靡した丸子カネボウは、姿を消してしまいました。騒動のあった中丸子保育園は、現在カネボウの跡地に移転しました。これもまた、不思議な話ですね?ボタンの掛け違いで運命が変わっていたのに!!
現在の園舎は25周年を記念して新築し、30周年には園長に就任。35周年には写真集!!40周年には大型遊具を。45周年を記念して内装工事。そして、50周年には夏休みを利用して、水洗トイレ一階・二階と工事しました。一階のトイレを広げて大人用を2カ所。幼児用2カ所。と改築。便座は冬に合わせて「暖房便座」を、そして・・永年の夢でしたバスルームを新築します。 「年少組さん失敗してもこれからは大丈夫!・・・」お風呂できれいに!!洗濯ルームには二つの洗濯機と乾燥機と完全装備で対応できるようになりました。お風呂は水遊び後やお泊まり会にも利用ができ、西望幼稚園の名物となりました。
5年ごとに記念事業を行ってきました。毎年、幼稚園の基金「ぴっぱら基金」も皆様のご協力をいたたき充実しています。今回も基金をいただき、。本当にありがたいことです。丸子中央保育園から丸子中央幼稚園そして西望幼稚園へ。園名は変わりましたが、私学として60年の歴史を続けてこられたのも皆さま方のご理解・ご援助を頂けたからこそと、思います。
切り開き、築き上げてきた60年でした。これからは、維持し、継続していくこととなりますが、現状に甘えず私学の特色を活かし斬新で創意工夫のある保育を今後とも続けいきたいと思います。
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2011年11月24日
その中でも丸子カネボウは日本を代表する大工場だったのです。従業員は日本中から集まり、特に関西・北陸の方々が多く、設備の整った社宅は、今の高級マンションなみだったようです。スーパー・飲食店・理髪店・銭湯もありそのすごさには、幼かった私も記憶に残っています。私の小学校時代、4クラスでしたが、カネボウの社宅から1クラスに6~7名いました。下校後、社宅に遊びに行き、生まれて初めて「紅茶ミルク」をいただいたことを強烈に覚えています。ここの社宅にいる人は、すごい金持ちなんだと子ども心に感じたことが思い出されます。そんなカネボウにも必要なものがあったのです。先ほどお話しましたが従業員の方々は関西・北陸の出身者が大勢しめていました。その方々に丸子の地に永住をして頂き会社を発展させようと考え会社は、個人住宅を奨励していました。関西・北陸は浄土真宗のご門徒さんが多い地域です。幼い時からお寺にお参りに行き、お説教(法話)を聴き、ましては、テレビのない時代でしたのでお説教所へ行きお話を聴くことが唯一の楽しみであり、生活の柱・支えとしていたようです。
そのお説教の講師として祖父が伺った折りに、工場長から浄土真宗のお寺の設立と従業員の子どもたちを預かる託児所を依頼されたました。順教寺再建を考えていた両親には夢のような話だったのです。
今の順教寺の建て物は、カネポウの寄宿舎、兼説教所でした。季節労働者が、ここで寝泊まりし工場に通い、時にはお説教を聴いたのです。今のツルヤと駐車場は以前グランドでした。ディツーと駐車場の部分は、男子寮と娯楽施設がありました。カネボウのグランドを特別に貸していただき、芝生の上で運動会も行なったことが何年間ありました。懐かしい想い出です。ツルヤ横にある広い駐車場に女子寮がありました。女子寮にはめずらしいのですが、浄土真宗の一軒幅の金仏壇があり、仏間は80畳ぐらいの広さがあったのではと記憶しています。いかに信仰があつかったことがわかります。お盆・お正月の帰省の際、必ずお勤めとお説教がおこなわれ、私も若かったころ、乙女たちを相手にガタガタ振れながらお話をしたことを覚えています。
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2011年11月23日
1952年(昭和27年)4月10日開園以来、来年の4月10日で満60歳を迎えます。そこで、「西望幼稚園」の誕生を振り返ってみます。子どもが誕生するには、必ず父と母の命がなければ誕生しません。
ご存じ、西望幼稚園はお寺の幼稚園です。園舎と並んでお寺があります。お寺といっても、お寺の格好をしていませんので知らない人は多いようです。お寺の名前は、「浄土真宗本願寺派 遠光山 順教寺」と言います。
本山は京都にある西本願寺です。通称「お西さん」と言われていますので是非覚えておいてください。この順教寺と言うお寺は、実は、大阪にあったのですが・・・、1945年(昭和20年)の大阪空襲の際、跡形もな消失してしまいました。父、創立者は長崎県島原のお寺出身。母は島根県大社のお寺出身です。その当時は、大阪にとどまることは大変危険なため二人は祖父と共に、母の故郷、島根に疎開をしなければ身の安全が保たれなかったそうです。そして、終戦(敗戦)。再び、お寺再建へと動きだしたのですが、大阪の地での再建は大変厳しいものがあり、知人を通じて長野県松本の「浄土真宗本願寺派 本願寺松本別院」に身を預けお手伝いをすることになりました。
戦争で多くの命が犠牲になりました。戦後の国の政策は、「産めよ増やせよ!!」とベビーブームが始まったのです。必然的に子どもたちを預かる施設が必要となったのです。国は「子づくり」を奨励していましたが、子どもたちを預かる施設まで用意することはできませんでした。お寺・教会には、ある程度の建て物と、庭(広場)がありましたので、その施設を利用して子どもたちを預かり、幼稚園・保育園ができ始めたのです。
両親は、松本の地で「松本中央保育園」の名で保育園を開園し、地域の子どもたちを集め保育園がまだない時代でしたので、大勢の子どもたちが通うようになり地域の保育園として機能し始めたのです。現在は、本願寺松本別院とともに松本市蟻ヶ崎に移転。松本中央幼稚園と幼稚園に切り替えて130名の子どもたちが元気に通っています。開園6年目に不思議なご縁がありました。私の祖父が丸子の地にたびたびお説教にいっていました。 当時の丸子町は戦前から製糸・紡績が盛んで、東洋のマンチェスターと言われていました。
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2011年11月14日
40年前の私です!!
大学の2回生
二男と同じ年齢です?
母校
玉川大学コスモス祭にて
カメラマンは?二男です!!
平成23年11月5日
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2011年11月 6日
グループ名の由来グループ名のAKBの由来は、ホームグラウンドが位置する秋葉原(あきはばら、AKIHABARA)からです。当初募集告知をした際には、「秋葉原48プロジェクト」と銘打っており、NTTドコモとのメンバー募集タイアップCMなどを始め、インディーズデビュー当時の各種メディアでは「Akihabara48」とされていたこともあります。その後、グループ名は「AKB(エーケービー)48」に統一されましたが、公式ブログのURLは現在も「akihabara48」となっています。
48の由来は、秋元康のイメージでは「あくまで商品番号で意味はない」と語っています。その名の通り、構成人数は総勢48名程度である(メンバーの入れ替わりにより、多少の変動はあります。48人で活躍している時期が長いが、必ずしも48人でなければならないという訳ではありません)。初期の構想では1軍24名+2軍24名の計48名というものでした。なお、結成当初の所属事務所であるoffice48の社長の芝幸太郎の姓(芝=48)からと48と決めたとする説もあり、真偽は不明となっています。
答え・・・は!?
数学の国 インドでは、「48」の数字は、大切な事・大事なこと・すばらしい等、絶賛することを数字に表すと「48」となります。
日本では、
★「相撲の技48手」・・・48手どころかたくさんあるような気がします。「大切な技48手と解釈」
★「赤穂浪士の討ち入りの人数47人+大石内蔵助を加えると48となります」これも逸話です。
★「い・ろ・は 48」 五十音は 51 ん・を・ゐ イロハは 48
インドでは・・・
★インドでは、お墓をつくりません。なぜなら、亡くなってから何かに生まれ変わるのでお墓は必要ないとの考えです。いつ生まれ変わるのかと言いますと、死んでから49日後です。49日で生まれ変わるのとすれば、お墓に行っても、その人はもう生まれ変わっていれば、別の人格です。ひっとしたら豚に生まれ変わっているかも知れません。すると、お墓には誰も眠っていないことになります。ですから、インドではお墓を作らないのです。
亡くなった日を一日と数え、死者は翌日から48日の間 真剣に迷った末に生まれ変わるのです。
★「無量寿経」に説く、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩として修行していたときに仏になる条件として立てた)四十八(48)の誓願。浄土教の根拠で、特に第十八願(18)は重視される。弥陀の本願。
48の誓願の中で一番大切な願は・・・18願 この18の数字は、「カラオケで!!貴女の18番は・・・?」とか「野球選手・・ピッチーのエース番号は18」 一番大事な数字は 18となります。仏教から伝わったものです。
おまけ・・・「48」の逆の数字「84」は、たくさん・多い・大きい を表す数字です。お釈迦様は8万4千の教えを説いたと言われています。8万4千の経典など。
48の数字は 大切・大事・すばらしい・かわいい などインドから中国そして日本に伝わってきたと考えていただいていいかも知れません。
かず・数字から
七・五・三 今では全国的なお祭りになりましたが、大正時代初めに関東でてきた風習です。
関西では「十三参り」旧暦の3月13日の行事でしたが、今は月遅れの4月13日「智慧もらい」 とも言います。京都嵐山の法輪寺で、安永2年(1773年)から行われるようになったと伝えられています。
七五三は、江戸時代幕府の五代将軍、徳川綱吉の息子の徳松が、11月15日に「髪置」 「袴着」 のお祝いをしたという逸話がもとになっています。風習は江戸時代にできましたが、流行り始めたのは大正時代の初めころで、それから全国に普及していきました。三歳、五歳、七歳のお祭りですが、男の子は、三歳と五歳。女の子は、三歳と七歳でお祝いします。三歳になると、男の子も女の子も「髪置」のお祝いをします。そして、男の子は、五歳となると、袴をはく「袴着」のお祝いをします。女の子は、七歳となると「紐落とし」 のお祝いをします。子どもの着物は付け紐ですが、七歳になると帯を結ぶようになるのです。
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